kenyaのブログ

30歳日本男子。ダイナミックに、革命的に、創造的に、爆発的に生きたいのに、我慢して合わせるばかりの人生。このままじゃ死ねないから踏ん張る姿をありのまま綴る成長ブログ。

あなたは知っていますか?AI時代の絶対基準

 

あなたは、今の時代にどの生き方をしたいですか?

 

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Switch一つで、

①宇宙がある状態と②宇宙がない状態が

 

①理解できる②説明できる③統制できる

 

それがBest Beingな存在です。

 

そして、そのBest beingの生き方を可能にする「これからの生き方Best being」という本が発売されます!

 

人間尊厳性の危機 AI時代、

自分の考えだけで生きる核個人の時代に、

 

点一個で宇宙がある状態とない状態とある状態を理解・説明・統制・予測・期待でき、

個人の尊厳1.0、阿耨多羅三藐三菩提、霊魂の自由主義者、誰もが物語を持つように案内できる。

そして、共同体の尊厳2.0、物語を大統合できる。

それを案内しているのが科学技術の未来技術nTechです。

 

歴史最高の悟りを得て、日本を愛し、日本を選択し、尊厳2.0は人類の核戦争の連鎖を止めた1945.8.15の決断と歴史的な実績がある日本しかできないと言い切り、

28年間、JAPAN MISSION、JAPAN DREAM、JAPAN MIRACLEを実践、発信しているのが、本の著者である、Noh Jesu氏です!

 

本の紹介動画です!

https://youtu.be/jjTRJSH0juU?si=vfrbfgzMub50ncrO

 

特設サイトです!

https://www.book.noh-jesu.com/b-being

 

科学技術の大前提になっているカントの有と無の規定の限界と、科学技術の次の未来技術nTechの有と無の規定の価値

 

哲学者カントの有と無の規定は、

有(あるもの)を「時空間の中に表れるもの」

無(ないもの)を「時空間の中に表れないもの」と規定しました。

 

このカントの規定では、時空間の中に表れるものを有の大前提にしているので、時間と空間の誕生が説明できません。

 

さらに、時空間の中に表れるものは、時間があり、すべて因果法則が成り立ちます。

因果法則がわかればわかるほど、知っている世界に掴まれてしまい、因果法則を越えることができず、因果法則に支配されてしまいます。

 

知っている世界には限界があるので、倫理道徳を使って、やりたくないことをやったり、やりたいことをやらないという実践をすることになります。

 

例えば、たくさんの努力をして人のために働いてみんなから感謝されるような生き方をしてきたとしても、ある日突然不慮の事故で体が動かなったとしたら、「なぜこのような生き方をして来たのにこんなに酷い目に遭ってしまったんだろう」と思う方も多いと思います。

そんな時に、「神だけはあなたの苦しみをわかっている。霊魂は不滅だから死んで生まれ変わったときには幸せな人生が送れる」など、神を要請し、知りえない世界を補いました。

 

やりたくないことをやる、やりたいことをやらない、合わせて、我慢して、演技を演じるということを繰り返すことは、大前提である有と無に対する規定とつながっているのです。

 

 

 

それに対して、認識技術nTechの有と無の規定は、

有を「依存せず自ら存在するもの」

無を「依存して存在するもの」と規定しています。

 

あってあるもの、永遠にあるものが本当にあるもの、実在であり、

あってないもの、あったりなかったりするものは実在とは言えず、ないものです。

 

この規定によって、「依存して存在するもの」は、始まりと終わりがあり、条件によって変化したり、あったりなかったりするため、すべて錯覚であり、バブルであり、虚構であることがわかります。

 

「依存せず自ら存在するもの」は、始まりもない、終わりもない、速すぎて脳ではイメージ不可能、認識不可能、感じること不可能な純度100%心の動きです。

 

「依存せず自ら存在するもの」が実在であり、そこから「依存して存在するもの:の依存体系をすべて説明することが可能になります。

一番早いスピードに依存して、二番目のスピード、三番目のスピード、n番目のスピードが生まれ、依存体系が作られて行きます。

時間、空間、ポジション、エネルギー、力、光、物質、生命、精神が生まれる体系を説明することができるようになります。

 

因果法則、因果ロジックを超えた、Byondロジックですべてを理解、説明、統制、予測、期待可能になり、新しいByondロジック時代を切り開くことができます。

 

認識技術nTechは、天動説から地動説へものの見方が移動して大きな変化が生まれたように、存在が動くという当たり前の大前提から、動きが存在させるという大前提の変化を起こす、全く新しい次代の新技術です。

 

少しでも興味のある方は、こちらの記事をご覧になってみてください。

 

科学技術の次の未来技術とは | Noh Jesu(ノ・ジェス, 盧在洙)オフィシャルWEBサイト

www.noh-jesu.com

 

究極の絶望を通過した人が希望そのものになれる

これまでの人間は様々な「不便」を感じることで、それを解消する道具を生み出して、生活を便利にし、文化文明を発展させてきました。

 

例えば、車や飛行機、携帯やスマートフォンなどです。

 

では、AIが人間を遥かに超える知能を持とうとしている今の時代に、私たちは何に不便を感じ、どんな変化を起こすべきでしょうか?

 

それは「自分」という概念です。

 

「自分」の何が不便なんだと思う人が大半だと思いますが、話を進めてみたいと思います。

 

まず、「自分=不可能そのもの」と聞いたら、あなたはどう思うでしょうか?

 

実は、この体の「自分」は0.00001秒も独立して存在できないんです。

 

そして、「自分=不可能性そのもの」とは、自分が生きた状態でできることは一つもないということです。

 

なぜならば、すべてに依存して存在しているからです。 

 

どういうことかというと、私たちは、自分で歩いている、自分で見ている、自分でしゃべっているという風に思っていますが、本当にそうなのでしょうか?

 

自分で歩く、見る、喋るためには、自分に分離独立して動くエンジンが必要ということになります。

 

私たちがこうやって話をするには、心臓が動くことが必要です。

 

心臓が動くためには、呼吸をして酸素を取り入れることが必要ですが、人間は酸素を作ることができません。

 

酸素を作るためには、植物が光合成することが必要です。

 

植物が光合成するためには、太陽の光が必要です。

 

太陽が動くためには銀河系が必要です。

 

そして、銀河系が動くためには、ダーク物質やダークエネルギーといったものが必要です。

 

そのように、宇宙すべてが1㎜のずれもなく協力することによって、この体が成り立っています。

 

なので、「自分」が分離・断絶・固定・独立して存在することは、0.000001秒もできません。

 

ですが、私たちは「自分」が独立して存在していると思っているので、「自分」というのは思い込みであり、固定観念です。

 

 

依存して存在し、0.00001秒も独立して存在できない「自分」が見る、聞く、歩く、話す、寝る、起きる、生きるということすべてが不可能なんです。

 

その「自分」では幸せになることも不可能なのに、これまで人間は、「自分」で幸せになれると思い込んでもがいてきました。

 

 

また、人間の感覚は部分しかとることができません。

 

人間の視覚はあらゆる電磁波の中から可視光線の反射だけをとらえて、それを電気信号で処理して、この現実画面を立ち上げています。

 

そして、光を作ることができない「自分」では、可視光線がなければ見るということも不可能です。

 

また、人間の聴覚はあらゆる周波数の中から20Hzから20,000Hzの周波数をとらえているといわれており、それを電気信号で処理して、音として認識しています。

 

そして、波を伝える空気を作ることができない「自分」では、音を認識することもできません。

 

人間の感覚でとらえたものしか認識することができず、その部分しか認識できない感覚でとらえた結果物しか見ることができません。  

 

さらに「自分」では本音・本物を知ることさえも不可能です。

 

なぜならば、さっきも話したように人間は、部分しか取れない感覚を通した結果物しか見ることができません。

 

カエルや蛇が認識している世界と同じ世界を認識しているでしょうか?

 

私たちは、ありのままの姿を観ることが不可能で、人間独自の錯覚しか認識できない状態です。

 

なので、いくらその中で本物・本音を探しても、魚のいないお風呂で魚を捕まえようとするようなもので、それを見つけることは不可能です。  

 

このように「自分」できることは一切ない、不可能性そのものなんです。

 

 

 

では次に、「その不可能性そのものの自分が唯一選択できるのは、無限大可能性」だということについて書いていきたいと思います。

 

少し話が変わるように思えますが、ボールペンを例えに使って説明していきたいと思います。

 

ボールペンがまだ地球上になかったところから、初めてボールペンがないと生まれた時のことをイメージしてみてましょう。

 

まず、ボールペンがないと不便だ、ボールペンが欲しいという意思があって、そして、ボールペンでないものが集まってボールペンが生まれています。  

 

このようにあらゆるものは、それ以外のものによって成り立っています。

 

これをA=notAと表現しています。  

 

では、A「不可能性そのもの」の自分は何によって成り立っているでしょうか。

 

「不可能性そのもの」は、「不可能性そのもの」でないもの、「不可能性そのもの」以外、それはあらゆる可能性、notA「無限の可能性」によって成り立っています。

 

このことから、A「不可能性そのもの」が唯一選択できるのは、無限の可能性そのものとなります。  

 

「不可能性そのもの」が100%完全に死ぬことで「不可能性そのもの」が完全にない世界、つまり無限の可能性だけが残ります。

 

完全に死ぬとはどういうことなのかというと、生死がある状態の体の死ではありません。

 

体が死んだとしても、体を構成していた原子やエネルギーは壊れずなくなりません。

 

生きたまんまで、時間もない、空間もない、エネルギーもない、人間と人間の宇宙が実在しないことがわかる世界です。

 

 

最後に「無限大可能性そのものになった時、なぜ不可能性そのものをつくったのか」について書いていきたいと思います。

 

人間的に考えたら無限大可能性のほうがいいと思いませんか?

 

なぜ、自分=不可能性を生み出したいと思ったと思いますか?

 

 

無限大可能性そのものとはどういう状態かというと、境界線がない世界です。

 

境界線がないウルトラスピードの動き。

 

境界線がないので、出会いもない、ショックもない、自分が何者なのかがわからない。

 

自分が何者なのか知ろうとしても、境界線がなく、自分以外がなく、自分を認識することができません。

 

自分が何者なのか知るためには、自分の外が必要ですが、境界線がないので外を作ることができません。

 

自分が何者なのか知るためにどうすればいいのか。

 

 

無限大可能性が思い込んで、動きを制限することで、無限の可能性の外を作った結果が、「自分=不可能性そのもの」です。

 

無限大可能性の不可能である「一個に固定する」ということにチャレンジした結果が「自分=不可能性そのもの」です。

 

 

無限の可能性に戻って、自分が何者なのか知るためには、体の自分で満たされて満足してしまったら戻れないですよね。

 

究極に絶望して、本来の無限大可能性に戻る必要があります。

 

 

なので「自分=不可能性そのもの」を自覚し、その「自分」が完全死することによって、無限の可能性そのものになり、自分が何者なのかを知ることができます。

 

 

そして、無限の可能性と自分=不可能性そのものを今ここ行ったり来たり、どちらにもとどまらない完全循環の動きそのものになることができます。

 

それが、無限大可能性が自分=不可能性そのものを作った理由です。

 

これによって、自ら限界を作って、それを突破しつづけられる、今ここゲーム感覚、祭り感覚で、楽しむことができる、To Live Bestな生き方ができるようになります。

 

この変化こそが、AI時代の人間、私たちに求められている変化です。

 

 

最後まで、読んでくださりありがとうございました。

 

 

 

「本音」がわからなかったから苦しかった人類

お久しぶりです。

 

今、私は

「本音が表現できない」→「本音が表現できる」

という変化にチャレンジしています。

 

その中で、今日、溢れてきた気持ちや考えを書き出したものを載せてみることにしました。

書いたままに載せてあるので、意味が通らなかったり、わかりにくい部分もあると思いますが、その奥の思いを少しでも感じていただければと思います。

 

 

あー本当に、人間はいままで本音を知らなかったから、苦しかったんだ。

 

いつもいつまでも本物が何かわからずに、悩んで、争って、ぶつかって、責めて、なぐさめて、裏切って、争って、血だらけに、傷だらけになってきたんだ、本物が本音がわからずに。


それぞれの絶対を握りしめて、自分が何者なのかもわからずにお互いを分離して、本物が本音が何かわからずに、生まれては死んで、生まれては死んで、自分が何者なのかもわからずに、自分の人生を生きることもできずに、あたかもそれが本音だと思い込んでやってきたんだ。


すべてを無くした時に本音が観える。


そして、一義、大義、正義が立っていく。


あーずっとずっとずっと探してたんだ、自分が何者なのか。


こんな自分をも心の奥底から愛せる、受け止められる何かをずっと探し求めてきたんだ。


あー本当に苦しかった、やりきれなかった思い、果たしきれなかった思い、伝えきれなかった思い、本音がわからなかったから。


それが揃ってきたのかなぁ


あー泣ける、泣ける、泣ける、泣ける、泣ける、涙が止まらない、あーずっとずーーーっと待ってたんだ、源泉動き、すべてを受け入れる、すべてを愛する、すべてを受け入れる、あー人間が本音がわからなかったから苦しい、涙だったんだ。


源泉に戻ろう、いつもいつもいつも戻るところができてよかった。

 

いつでも戻るところができてよかった。

 

戻るところが、揺るがないところができてよかった。

 

いつもいつでも戻るところができてよかった。

 

いつも、どんな状況でも、どんな時でも、いつもいつも、明確に戻れるところができてよかった。

 

これが欲しかったんだ、いつも何が本当なのか、本音なのかがわからず、不安で、不安定で、苦しくて、困って、悩んで、苦しくて、わからなくて、不安で、決められなくて、怖くて、何をどこからどのように考えたらいいのかわからなくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて。

 


自分がわかってることなんてひつもないのに、みんなわかっているようにしゃべるし、自分だって本当はわかっていることなんてひとつもないとわかりながら喋って、ずっと気持ち悪くて、気持ち悪くて、気持ち悪くて、気持ち悪くて、気持ち悪くて、何を言っても、何を喋っても、何を表現しても、違和感、気持ち悪い、しっくりこない、何もわかっていることがない、絶対的な変わらないもの、本音がわからない、わからない、わからない、わからない、表現できない、できない、できない、できない、できない、できない、不可能、不可能、不可能、どう頑張ったって、どうやったって、無理だった。


それがやっと観えた、本音が、ひとつだけの動き、Image不可能、認識不可能、感じること不可能。だから本音なんだ。本音になれるんだ。本音、本物が。

 

いつも戻れる、いつもそれだけがある。

 

何を言っても言わなくても、何をやってもやらなくても、何がどうなっても、どうなったとしても、永遠にひとつの動きだけがある、戻れる場所がある。

 

それが全人類が戻れる場所、戻るべき場所。

 

それでいいんだ。そこに戻れる。

 

それでようやくスタートライン、同じ出発に立てる。

 

Image不可能、認識不可能、感じること不可能だから、ひとつになれる、そこからすべてが生まれて、自分でできることなんて何ひとつない。

 

ひとつもない、ひとつもない、あーそうか。

 

 

あー苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、圧迫感、自分を留めている、ものすごい圧迫感。

 


自分=思い込みの檻、牢屋。

 

自分で自分をこの体に考えに閉じ込めている。ものすごい圧迫感、ものすごい制限、圧迫、圧縮、圧縮、小さく、小さく、小さく、小さく閉じ込めている。境界線。

 

自分=不可能性そのものなんだ。

 

できない、足りないわわからない。


究極の圧迫感、これが自分なんだ。

 

うわー究極の圧迫感、自分という概念、究極の圧迫感、自分という概念。

 

究極の圧迫感、圧縮、制限、すべて繋がっているのに、この体だけが自分と思い込んで留めて、閉じ込めているんだ。

 


人間はなぜこの状態に気づけなかったんだろう。どうしてだろう。

 


どんな時でも本音に戻って、エネルギーと思い込みの主体を愛して、ありのまま、そのもので生きたい。

 

 

最後まで読んでくださりありがとうございました。

やりたくないことリスト

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最近、仕事をたくさん抱えているのに、仕事の優先順位がつけられず、焦りが止まらに状況で悩んでいました。

 

毎日、毎日、やることリストを作って仕事を進めるも一向に仕事が減らない。

 

一つの仕事をしていても、別のことが気になって集中できなかったり、次から次に新しい仕事が降ってわいてきて、もううんざり。

 

寝つきが悪くなったり、仕事に行きたくない病が発症したり。

 

どうしたらいいんだろうと解決策を探していたところ、

 

「やることではなく、今日やらないことを決める」という視点に出会いました。

 

そうして仕事に向かう途中「今日やらないこと」と「今日やること」を決めて、仕事に挑みました

 

そうしたらやることに集中できてすっきりした気持ちで一日を過ごすことができたんです!

 

いつもなら「今日はものすごい大忙しでフルスピードで仕事をこなしたけど、まだあれもやらなきゃいけないし、これもやらなきゃいけないし・・・・」と憂鬱な気持ちで仕事を終えていました。

 

ですが、「今日やらないこと」と「今日やること」を決めて仕事に臨んでみると

「今日やることは全部終えられた!仕事も着実に進んでる!」と実感ができたんです。

 

「決断」という言葉がありますが、「断つことを決める」と書きます。

 

やることを決めるよりも、何をやめるか、何をストップするのかが大事なんだと気づき、何かを止めたら、自然と新しい動きが始まるんだなと感じました。

 

 

そんなこんなで「やめること」が直近のマイブームです。

 

そこで「やりたくないことをやらないでみたらどうなるか」と実験したくなったので、

やりたくないリストを作成してみます。

 

  1. ・人に合わせて言いたいことを言わない
  2. ・周りの目を気にしてやりたいことをやらない
  3. ・自分の現状の悪いところばかり観て、自分を責める
  4. ・だらだらと動画を観る
  5. ・感情にふたをする
  6. ・自分の可能性や人生の幅はこんなもんだと決めつける
  7. ・周りの当然を自分に当てはめる
  8. ・一息つく間もなく仕事をする
  9. ・ずっとスマホいじって猫背になる

 

ひとまずこんなところでしょうか。

 

どうやら「他人に合わせる」「自分を責める」「無駄なことをする」

このあたりがやりたくないことのキーワードかなという感じがしてきました。

 

まずは、「周りの当然を自分に当てはめる」これを止めてどうなるか実験してみたいと思います。

 

 

もし読んでいただいた方がいたらありがとうございます。

一文字でも感想のコメント等いただけたら幸いです。

 

 

ブログは誰かのために書かないとダメ?

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久しぶりの投稿です。

 

久ぶりすぎて新たにブログを書き始めるような気持ちです。

 

今回は、「ブログは誰かのために書かないとダメなのか?」について、徹底考察していきたいと思います。

 

ブログは、ブログを成長のためのツールと規定して、主張を繰り広げたいと思います。

 

「ブログは誰かのために書かないとダメなのか?」そんなことはないと思います。

 

収益化のためには、読み手のニーズを満たすような記事を書くことも必要だと思いますが、ブログを書く人の目的は様々です。

 

「自分の成長のため」

「愚痴の吐き出し口」

「メモ」

「記憶に残すため」

「仲間内の情報発信」

「文章力を身に着けるため」

「なんとなく書いてみたい」

 

などなど・・・・・

 

その際に「ブログは誰かのために書かないとダメ」という考えがあると、

ブログを書くハードルが上がってしまい、なかなか最初の踏み出せないことがあります。

 

はい、わたしのことです。笑

 

まずは、やってみたいと思ったことに対して、やりやすい環境を自分で創ってあげることが大事だと思ったので、自分自身に言い聞かせるためにもこの記事を書いています。

 

他の人がどう思うかを考えすぎてめんどくさくなったのが正直なところです。笑

 

この記事だって誰の目にも止まらないかもしれません。

 

情報化社会で何億という記事があふれていますからね。

 

だからこそブログを「誰かのため」に書く以前に、

自分の今の成長のために書こうというわけです。

 

 

私は今回少し確信できました。

 

「ブログは自分のために書いていいんだ」と

 

ちゃんちゃん。

 

もし読んでくれた人がいたらうれしいですね。

一文字でもコメントお待ちしてます。

 

【第25回 令和哲学カフェ】 思考の美学 #5 に参加しました!

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【第25回 令和哲学カフェ】 思考の美学 #5 に参加した感想を書いていきたいと思います。

 

 

体も含めて、この現実は観点の結果物、認識対象であり、それは科学の開発対象領域ということが深まった。

 

この領域をいくら開発してもも、AIには負ける。ここを開発する場合じゃない。

科学では開発不可能な認識主体を開発するべきだと感じた。

 


その認識対象、観点の中(瓶鳥の中)は地獄だ。

 

人間は騙す/騙されるゲームでありながら、それに全く気付いていない。

 

観点が違うのに、違う考えと出会うと、摩擦衝突、争い、嫉妬、戦争。

 

それで愛したくても愛せない。

 

体にとらわれて、いつも条件反射。

 

考えが何なのかわからず、なんの意図もなく考えが生まれて、考えに支配されている。

考え一つも統制できない。

 

地獄を認識したときに、それがひっくり返る。

そう感じたのは、「真善美聖和」の話を聞いたから。

 

すべての知ってる世界は観点の結果物、認識の対象だから、本当に知ってることはひとつもないんだとわかる「真」の世界。


この地獄の世界を天国にさせるためにあるべき世界、「善」の世界。

宗教的神よりも1千兆倍すごすぎる存在、すごすぎるから脳ではイメージ不可能、認識不可能、感じること不可能、それが夢を見ている。

瓶鳥が映画になるから、最悪の地獄が最高の天国になってしまう。これは美しい。瓶鳥はないが、瓶鳥を壊していない。こんなプロセスを創造する真理にまた感動。

 

そして、さらに宇宙を点の中に入れて、1対1の対称性ですべてを観る「美」の世界。

 

存在不可能なのに存在するっぽく認識できる神秘神聖。

物理現象で見たらなんの意味価値もないのに、そこに意味価値をつけて戦争や切腹までしてしまう、摩訶不思議、神秘神聖の「聖」の世界。

 

無限大ある違い、観点のストーリーがオーケストラのように調和する「和」の世界。


これらを通して、地獄が見事に自然と天国になってしまう。

 

 

自由と道徳が相反するものだったこれまでの哲学の限界。

それに対して、「令和哲学は自由と道徳が一致する」という令和哲学者Noh先生の言葉に、人類72億がみんな幸せになる、そんな人類の希望を感じた。

 

 

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