究極の絶望を通過した人が希望そのものになれる
これまでの人間は様々な「不便」を感じることで、それを解消する道具を生み出して、生活を便利にし、文化文明を発展させてきました。
例えば、車や飛行機、携帯やスマートフォンなどです。
では、AIが人間を遥かに超える知能を持とうとしている今の時代に、私たちは何に不便を感じ、どんな変化を起こすべきでしょうか?
それは「自分」という概念です。
「自分」の何が不便なんだと思う人が大半だと思いますが、話を進めてみたいと思います。
まず、「自分=不可能そのもの」と聞いたら、あなたはどう思うでしょうか?
実は、この体の「自分」は0.00001秒も独立して存在できないんです。
そして、「自分=不可能性そのもの」とは、自分が生きた状態でできることは一つもないということです。
なぜならば、すべてに依存して存在しているからです。
どういうことかというと、私たちは、自分で歩いている、自分で見ている、自分でしゃべっているという風に思っていますが、本当にそうなのでしょうか?
自分で歩く、見る、喋るためには、自分に分離独立して動くエンジンが必要ということになります。
私たちがこうやって話をするには、心臓が動くことが必要です。
心臓が動くためには、呼吸をして酸素を取り入れることが必要ですが、人間は酸素を作ることができません。
酸素を作るためには、植物が光合成することが必要です。
植物が光合成するためには、太陽の光が必要です。
太陽が動くためには銀河系が必要です。
そして、銀河系が動くためには、ダーク物質やダークエネルギーといったものが必要です。
そのように、宇宙すべてが1㎜のずれもなく協力することによって、この体が成り立っています。
なので、「自分」が分離・断絶・固定・独立して存在することは、0.000001秒もできません。
ですが、私たちは「自分」が独立して存在していると思っているので、「自分」というのは思い込みであり、固定観念です。
依存して存在し、0.00001秒も独立して存在できない「自分」が見る、聞く、歩く、話す、寝る、起きる、生きるということすべてが不可能なんです。
その「自分」では幸せになることも不可能なのに、これまで人間は、「自分」で幸せになれると思い込んでもがいてきました。
また、人間の感覚は部分しかとることができません。
人間の視覚はあらゆる電磁波の中から可視光線の反射だけをとらえて、それを電気信号で処理して、この現実画面を立ち上げています。
そして、光を作ることができない「自分」では、可視光線がなければ見るということも不可能です。
また、人間の聴覚はあらゆる周波数の中から20Hzから20,000Hzの周波数をとらえているといわれており、それを電気信号で処理して、音として認識しています。
そして、波を伝える空気を作ることができない「自分」では、音を認識することもできません。
人間の感覚でとらえたものしか認識することができず、その部分しか認識できない感覚でとらえた結果物しか見ることができません。
さらに「自分」では本音・本物を知ることさえも不可能です。
なぜならば、さっきも話したように人間は、部分しか取れない感覚を通した結果物しか見ることができません。
カエルや蛇が認識している世界と同じ世界を認識しているでしょうか?
私たちは、ありのままの姿を観ることが不可能で、人間独自の錯覚しか認識できない状態です。
なので、いくらその中で本物・本音を探しても、魚のいないお風呂で魚を捕まえようとするようなもので、それを見つけることは不可能です。
このように「自分」できることは一切ない、不可能性そのものなんです。
では次に、「その不可能性そのものの自分が唯一選択できるのは、無限大可能性」だということについて書いていきたいと思います。
少し話が変わるように思えますが、ボールペンを例えに使って説明していきたいと思います。
ボールペンがまだ地球上になかったところから、初めてボールペンがないと生まれた時のことをイメージしてみてましょう。
まず、ボールペンがないと不便だ、ボールペンが欲しいという意思があって、そして、ボールペンでないものが集まってボールペンが生まれています。
このようにあらゆるものは、それ以外のものによって成り立っています。
これをA=notAと表現しています。
では、A「不可能性そのもの」の自分は何によって成り立っているでしょうか。
「不可能性そのもの」は、「不可能性そのもの」でないもの、「不可能性そのもの」以外、それはあらゆる可能性、notA「無限の可能性」によって成り立っています。
このことから、A「不可能性そのもの」が唯一選択できるのは、無限の可能性そのものとなります。
「不可能性そのもの」が100%完全に死ぬことで「不可能性そのもの」が完全にない世界、つまり無限の可能性だけが残ります。
完全に死ぬとはどういうことなのかというと、生死がある状態の体の死ではありません。
体が死んだとしても、体を構成していた原子やエネルギーは壊れずなくなりません。
生きたまんまで、時間もない、空間もない、エネルギーもない、人間と人間の宇宙が実在しないことがわかる世界です。
最後に「無限大可能性そのものになった時、なぜ不可能性そのものをつくったのか」について書いていきたいと思います。
人間的に考えたら無限大可能性のほうがいいと思いませんか?
なぜ、自分=不可能性を生み出したいと思ったと思いますか?
無限大可能性そのものとはどういう状態かというと、境界線がない世界です。
境界線がないウルトラスピードの動き。
境界線がないので、出会いもない、ショックもない、自分が何者なのかがわからない。
自分が何者なのか知ろうとしても、境界線がなく、自分以外がなく、自分を認識することができません。
自分が何者なのか知るためには、自分の外が必要ですが、境界線がないので外を作ることができません。
自分が何者なのか知るためにどうすればいいのか。
無限大可能性が思い込んで、動きを制限することで、無限の可能性の外を作った結果が、「自分=不可能性そのもの」です。
無限大可能性の不可能である「一個に固定する」ということにチャレンジした結果が「自分=不可能性そのもの」です。
無限の可能性に戻って、自分が何者なのか知るためには、体の自分で満たされて満足してしまったら戻れないですよね。
究極に絶望して、本来の無限大可能性に戻る必要があります。
なので「自分=不可能性そのもの」を自覚し、その「自分」が完全死することによって、無限の可能性そのものになり、自分が何者なのかを知ることができます。
そして、無限の可能性と自分=不可能性そのものを今ここ行ったり来たり、どちらにもとどまらない完全循環の動きそのものになることができます。
それが、無限大可能性が自分=不可能性そのものを作った理由です。
これによって、自ら限界を作って、それを突破しつづけられる、今ここゲーム感覚、祭り感覚で、楽しむことができる、To Live Bestな生き方ができるようになります。
この変化こそが、AI時代の人間、私たちに求められている変化です。
最後まで、読んでくださりありがとうございました。