感情の意味が変わった
感情の意味が変わった
〜悔しさは「人間がどんな条件・状況・環境にも揺るがない不動の心で生きられることを証明したい意志の表れ」〜
先日、気づきがあったので、
伝わるかはわかりませんが、共有してみます。
子供の頃、親に怒られて、自分がどれだけ反発しても、泣いても、わめいても伝えられなくて、制圧できなくて、
どんな言葉を使っても表現しきれないほど悔しい涙を流して
もう言うこと聞いて生きて行くしかないんだ。
と決断した。
今気がつけば、
その悔しさがこれまで、自分の宇宙から1ミリたりとも離れたことはなくて、
人に合わせながら、人の言うことを聞きながら、人によく思われることを選択しながら、
心の奥底では悔しかった。
そのエネルギーの繰り返しを、26年間、毎瞬繰り返してきたから、その思い込み、決断の繰り返しがわかったとしてもつかまれてしまう、わかったとしてもとらわれてしまう、そんな自分に対してまた悔しさ、怒りが出る。
怒りを出すことは×だという判断基準があるから、その怒りや悔しさを表現することができずに苦しかった。
ずっと繰り返して、無意識の奥深くに刷り込まれているから、思い込みだとわかっても、また繰り返してしまう。
そんな宇宙から出たいと思っても、出てくるあきらめ、やるせなさ。
何度も何度も出たいと思ってはあきらめ、出たいと思ってはあきらめを繰り返す。
そんな時、小さい頃の悔しい気持ちを感じてみた。
どう頑張っても表現しきれない悔しさ怒りを感じて涙が出る。あの時の感覚が蘇る。
その時、ふと、
「ほんとうはどうしたかったんだろう?」とまた、その時になりきってみる。
その当時、3歳のおれの言葉ではないけど、今できうる限りでその意志を表現してみれば、
「人間として生まれてきて、どんな考えや力や論理にも、とらわれない、つかまれない、人間のプライドを、意志を証明したい」
だけど、どうしても負けてしまう。
どうしても怖がってしまう。
どうしても思った通りにできない。
その時、自分は負けたと思った、そして言うことを聞いて生きて行くことを決断した。
ずっと「今に見てろよ」とリベンジに燃えていた。
実は、前から自分が怒りや悔しさがたくさんあることに気づいたときに、
怒りや悔しさを否定していたから、自分はダメな人だと思っていた。
だけど、その怒りや悔しさの概念や解析が変わった。
リベンジの意味は、誰かを倒すとか、誰かを負かすとか、そういうリベンジではなく、
本当の人間の機能を使った生き方を証明してみせる、という叫びだった。と気づいた。
だから、負けたと決断したその時から、
人に合わせて、笑顔して、
友達と話していて、トイレに行きたい、水をとってくるということさえ言えなくなるほどにならながらも、
そのリベンジに、不動の心で生きられる人間の尊厳の生き方を証明するリベンジに、燃えてきた。
そう思った時に
もはや怒り・悔しさの概念が変わってた。
悔しさは
「人間がどんな条件・状況・環境にも揺るがない不動の心で生きられることを証明したい意志の表れだ」
と変わった。
そうなったら怒りと出会うのが楽しみになった。
危機をチャンスにひっくり返せるような感覚。
日本の涙のストーリーともオーバーラップする。
これから、どうなって行くか楽しみ。^ ^