【第25回 令和哲学カフェ】 思考の美学 #5 に参加しました!
【第25回 令和哲学カフェ】 思考の美学 #5 に参加した感想を書いていきたいと思います。
体も含めて、この現実は観点の結果物、認識対象であり、それは科学の開発対象領域ということが深まった。
この領域をいくら開発してもも、AIには負ける。ここを開発する場合じゃない。
科学では開発不可能な認識主体を開発するべきだと感じた。
その認識対象、観点の中(瓶鳥の中)は地獄だ。
人間は騙す/騙されるゲームでありながら、それに全く気付いていない。
観点が違うのに、違う考えと出会うと、摩擦衝突、争い、嫉妬、戦争。
それで愛したくても愛せない。
体にとらわれて、いつも条件反射。
考えが何なのかわからず、なんの意図もなく考えが生まれて、考えに支配されている。
考え一つも統制できない。
地獄を認識したときに、それがひっくり返る。
そう感じたのは、「真善美聖和」の話を聞いたから。
すべての知ってる世界は観点の結果物、認識の対象だから、本当に知ってることはひとつもないんだとわかる「真」の世界。
この地獄の世界を天国にさせるためにあるべき世界、「善」の世界。
宗教的神よりも1千兆倍すごすぎる存在、すごすぎるから脳ではイメージ不可能、認識不可能、感じること不可能、それが夢を見ている。
瓶鳥が映画になるから、最悪の地獄が最高の天国になってしまう。これは美しい。瓶鳥はないが、瓶鳥を壊していない。こんなプロセスを創造する真理にまた感動。
そして、さらに宇宙を点の中に入れて、1対1の対称性ですべてを観る「美」の世界。
存在不可能なのに存在するっぽく認識できる神秘神聖。
物理現象で見たらなんの意味価値もないのに、そこに意味価値をつけて戦争や切腹までしてしまう、摩訶不思議、神秘神聖の「聖」の世界。
無限大ある違い、観点のストーリーがオーケストラのように調和する「和」の世界。
これらを通して、地獄が見事に自然と天国になってしまう。
自由と道徳が相反するものだったこれまでの哲学の限界。
それに対して、「令和哲学は自由と道徳が一致する」という令和哲学者Noh先生の言葉に、人類72億がみんな幸せになる、そんな人類の希望を感じた。